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Simon Phillips インタビュー

Photo by Taro Yoshida (Copyright 2002 Taro Yoshida)

 

Totoやジェフ・ベック等、数々の素晴らしいミュージシャンと数えきれない名演奏やレコーディングを残してきたスーパードラマー、サイモン・フィリップス。今回、バンドの盟友ジェフ・バブコの紹介で、インタビューを申し込んだところ、快く了解を頂けました。シャーマンオークスの丘の中腹の隠れ家のようなお宅で、家の中には最新機材をふんだんに使ったスタジオがあり、全部自分でセッティングされたそうです。今やドラマーとしてだけでなくレコーディングエンジニアとしても超多忙な毎日。 ヨーロッパから戻ったばかりのところ、快く長い時間インタビューに応じて頂き、特製のイングリッシュ・ティーまでごちそうになりました。 本当に優しくて、気配りをされる方で、この人柄がミュージシャン達からの厚い人望を受けるのだと、判ったような気がしました。 

PCI:プロフィールの詳細はご自身のサイト、を見ていただくとして、まずはいつどこで生まれたか、音楽を始めたきっかけから教えていただけますか?

Simon:1957年にロンドンで生まれました。 私の父はミュージシャンでクラリネットを吹いていたんです。 そしてバンドリーダーでもありました。 父は私が生まれたとき、もう50才でした。 1920年代にイギリスの最初のジャズバンドで吹いているのですよ。

PCI:ビッグバンドだったんですか?

Simon:まだ1920年代はビッグバンドはありませんでした。 1930年代に、彼はロンドンの最も有名なビッグバンドに入ったんです。 彼はビッグバンドの作曲、ツアーのアレンジ等もやりながらバリトンをやってました。 その後ニューヨークへ行き、ラジオショーのために自分のバンドを結成したんです。 9ピースのバンドだったんです。 彼の始めた音楽は、その頃人気のあったディキシーランド・ジャズとはちょっと違う新しいものでした。 アレンジが大変凝ったものだったんです。 彼のアレンジの特徴は、少人数でビッグバンドのような音を出すことでした。 レコードを聞いた人は大人数のバンドがやっていると思うんです。 ところが、実際はたった9人でやっているので、コンサートを見に来た人は皆驚くんです。 私が生まれた時、父はいつも家でリハーサルなど音楽の仕事をしていました。 私が初めてドラムを叩いたのは3才半になった時で、ちょうどその時もリビングルームでバンドのリハーサルをしていましたね。

PCI:3才半でドラムを始められたんですね? その後、正式にバンドのドラマーとして活動されたのはいつでしたか?

Simon:6才の時に、父のバンドのBBCでの録音でドラムを叩いたのが最初の仕事です。 彼がこの時私を起用したのは、プレッシャーを与えて私に才能があるかどうかを試したんです。 結局この後12才になるまで彼のバンドでドラムを叩くことになりました。 そして12才でプロになったんです。 

PCI:6才の時のテストは合格したということですね? それで12才からお父さんのバンドを離れてプロになったんですか?

Simon:そうじゃなくて、父のバンドでフルタイムで叩くドラマーになったということです。 16才までの4年間フルタイムで父のバンドでGIG、レコーディング、セッションなどをやりました。
当時まだ私は学校に行っていたんで、そんな仕事をやることを認めてくれる学校に変わりました。 フルタイムでドラマーをやり、パートタイムで学校に行ってたんです。(笑) 

PCI:お父さんのバンドでその頃やってみえた音楽は、ディキシーランド・ジャズをベースにしたものだったんですね?

Simon:そうです。  

PCI:少なくとも音楽についてはお父さんの影響が大きかったんですね?

Simon:そうですね。 その当時は他の音楽の事も知らなかったし、父はポップミュージックは大きらいだったし。(笑) でもバンドのみんなと付き合ううちに、シカゴとかブラッド・スエット&ティアーズ、マハビシュヌ・オーケストラなんかも聴くようになったんです。 それで、ちょっと待てよ、やりたい音楽はディキシーランド・ジャズじゃないなってことが判ったんです。 14才の頃から父のバンド以外にもGIGもやるようになったんです。 

PCI:お父さんのバンドから完全に独立されたのはいつでしたか?

Simon:16才の時、父(Sid Phillips)が亡くなったんです。 まさにその時が文字通り父から独立する瞬間になりました。 そして父のバンドを辞め、ミュージシャンとしての長い旅が始まったんです。 それでロンドンを中心にいろんなセッションに参加したんです。 1976年には、ロンドンで最も忙しいセッションマンになったと思います。 あの頃は1日に3つのセッションをやっていました。 まだ18才の頃でした。 初めて会うミュージシャンの人達は「おーい、きょうのドラマーはどこにいるんだよ」って捜すんです。 で、スタジオの隅に僕が恥ずかしそうに座っている訳です。(笑) その後、半信半疑で一緒にプレーして、みんな気に入ってくれたんです。

PCI:それで、ロサンゼルスにはいつ移ってこられたんですか? 何かきっかけがあったんですか?

Simon:1992年です。 きっかけは離婚でした。 実は1979年にスタンリー・クラークと仕事をしたときにロスに移ることを考えたんです。 アメリカが好きだったし。 でもその当時ロンドンでは有名になってたんですけど、まだアメリカでは全然知られてなかったんです。 また当時、ワイフの反対もあって結局ロンドンに留まったんです。 で、結局92年に一人になったのをきっかけに思い切って来ることにしたんです。 

PCI:それからアメリカでも大活躍が始まるんですよね。  ジェフ・ベックとかスティーブ・ルカサーとかギタリストのご指名が大変多いようですし、絶えずギターのフレーズに敏感に反応していますよね。 そのあたりのドラマーとしての哲学を教えて下さい。 

Simon:あまり意識してないんですけど、たまたま私がやってきた音楽がギターをフィーチャーしたものが多かったんで、ギタリストとのプレーが注目されるんでしょう。 ギタリストだろうがピアニストだろうが私はいつもプレーヤーの音をよく聴く様にしています。 そして彼等とInteractive(双方向)に、Instinctive(本能的)にプレーするようにしています。 音楽のジャンルや誰とプレーするかは関係なく、これが私のスタイルです。 

Photo by Taro Yoshida (Copyright 2002 Taro Yoshida)

 

PCI:これはお父さんの影響なんでしょうか?

Simon:父のバンドの時は、全くInteractive(双方向)や、Instinctive(本能的)は許されませんでした。 とにかく与えられた楽譜通り、いかに忠実にプレーするかが要求されたんです。 それは厳しい掟でした。 その反動で全く逆のプレーをするようになったんだと思います。 そういう意味では父の影響があったのかも知れませんね。(笑)  それとセッションをやってて判りましたが、多くのミュージシャンが他のプレーヤーの音を聞かずに機械的にプレーしているんですよ。 

PCI:先日、あなたとスティーブ・ルカサー、メルヴィン・デイビス、ジェフ・バブコの4人でのDoves of FireのGIGをベイクドポテトで見ました。 あれこそまさに4人のInteractive(双方向)な、Instinctive(本能的)なライブで観客全員総立ちの凄い演奏で感激しました。

Simon:そう、あれは好評でした。 今私が一番好きな音楽のタイプです。 リハなしで4人がその場でいい音楽を創り上げていくんです。 

PCI:その緊張感と4人の感性の絡み合いがライブならではの醍醐味でした。 さて、日本のギタリストの間では、ジェフ・ベックとのプレーの印象が強烈です。 日本にも一緒にみえてますよね?

Simon:ジェフ・ベックとは3回日本でやってます。 最初のは1978年で、スタンリー・クラークとジェフと行きました。 2回目は1980年で、ジェフのバックバンドとしてプレーしました。 3回目は1986年でした。 

PCI:その時は軽井沢でサンタナも一緒にやりましたよね? 

Simon:そうです、よく知ってますね。 その時スティーブ・ルカサーも来ていて、初めて彼とやったんです。 確か、ゴルフ場とかスキー場とかがあるリゾート地でしたよね。 

PCI:何か面白いエピソードはありましたか?

Simon:その頃私は車の運転に凝ってたので、とにかく車の運転がしたかったんです。 夜コンサート会場からホテルに帰る時に、ゴルフ場のカートを見つけたんです。 それでバーへ行きジェフやルカサーを誘ってこっそりみんなで運転したんです。 ジェフが一台ピックアップし、私もそれに続き暗やみの中オフロードレースになったんです。 ライトを消して隠れんぼとレースをやった様なもので楽しかったですね。 ルカサーなんかは叫びまくってましたね。(笑)