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Abraham Laborielインタビュー (1/4)

エイブラハム・ラボリエル(Abraham Laboriel Sr.)と言えば、最もミュージシャンに慕われ、頼りにされたベーシストと言って過言では無いでしょう。 メキシコに生まれ育ち、クラシックギターから音楽に接し、後にフラメンコギターのスタイルをベースに取り入れ、そしてバークリー音楽学院でジャズと融合させたユニークなベーシスト、そして数多くのアーティストのレコーディングに参加。 ところが彼の話を聞き、ライブを見て、そんな経歴以上の凄さと迫力、そして優しさと温かさが伝わってきました。 多くのミュージシャンに今もなお頼りにされ続けるのが判る様な気がします。 インタビューは、2001年11月29日に「3 PRIME」という彼のバンドがロスのBaked Potatoでライブを演る時に実現しました。 「3 PRIME」はPeter Donald、Tom Ranierとのトリオで、CDも出ておりBaked Potatoでは毎月演奏しています。 Abeと3 PRIMEの詳細は是非こちらをご参照下さい。 Abeの人柄がこのインタビューで少しでも伝われば嬉しいです。 

PCI :1/14/02

「メキシコからロサンゼルスへ来るまで」

PCI:迫力あるあなたのライブにはいつも感動してきましたが、本日はこうしてインタビューができ大変嬉しく思っています。まずは生い立ちから聞かせて下さい。

Abe:1947年にメキシコ・シティーで生まれ、21才までそこで育ちました。 

PCI:いつからギターとベースを始めたんですか?

Abe:父がギターを弾いていたので、6才の頃からギターを習ったんです。24才の時にボストンでベースに転向したんです。

PCI:メキシコではずっとギターを弾いてたんですね? どんな音楽をやっていたんですか?

Abe:父からクラシックギターを習い、それからリズムギタリストとなりました。 そして幾つかヴォーカルグループも作り、レコードも出しました。 17才の時にメキシコのプログレッシブ・ロックのバンドの一員になり、キャピタルレコードと契約し、メキシコで専属リズムギタリストになったんです。 その後エンジニアの学校に行き音楽も続けてたんですけど両立が難しく、音楽を一時止めざるを得なくなったんです。 でも音楽をどうしてもやりたくて両親に頼んだんです。 「1年だけ音楽を集中してやらせて欲しい。 それでダメだったらエンジニアの学校に戻るから。」って。

PCI:それはいくつの時でしたか? 

Abe:20才でした。 それでメキシコ・シティーのNational School of Musicへ1年行ったんです。 ところがメキシコで音楽の学位を取るには11年もかかる事が判ったんです。 それで他の国の大使館などを回って色々調べてみたんです。 そうしたらアメリカで4年のプログラムがあったんで、Boston Conservatoire of Musicに願書を提出し合格したんです。 それで、その学校のコンサルタントのところへ行ったら、ジムという人が、「念の為、バークリー音楽学院もそばにあるから一度見てきたらどう? 気に入らなかったら、またここへ戻ってくればいいから。」とアドバイスしてくれたんです。 このジムという人のアドバイスが私の人生を変えたんです。 バークリーの事は何も知らなかったんですが、クインシー・ジョーンズが生徒で来ていました。 結局バークリーの方が気に入ってそちらへ行くことにしたんです。 

PCI:ちょっとした事で人生ががらっと変わるんですね。

Abe:そうですね。 ただ家族は大変でした。 バークリーには奨学金制度はなく、うちは大変貧乏でしたので、家族みんなで働いて私の学費を支えてくれたんです。 その後、ボストンで結婚してアメリカに住む事に決めました。 ワイフが医者だったので彼女の仕事の都合でボストンからクリーブランドへ引っ越し、その2年後ロサンゼルスへ移ったんです。

PCI:ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)があなたにロサンゼルスに来るようにアドバイスしたと聞きましたが? 

Abe:そうです。 1975年に彼がロスに招待してくれて、レコーディングに参加したんです。

PCI:何のレコーディングだったんですか?

Abe:シンフォニック・ソウル(Symphonic Soul)というレコードで、有名なソウルの歌をオーケストラ用にアレンジしたものです。 私のベースをフィーチャーしてくれたんです。

PCI:ヘンリー・マンシーニのオーケストラでベースを弾いた訳ですね?

Abe:そうです。 そして1973年に彼のオーケストラと一緒に日本へも行きました。 その時はヘンリー・マンシーニの映画音楽などスタンダードナンバーを演奏してましたね。

 

 

PCI:それから一時クリーブランドへ行かれたんですね?

Abe:1974年と75年の2年間はワイフが医者のインターンをしなければならないので、クリーブランドへ行ってしばらく音楽を止めて子供の世話をしてたんです。 当時2歳半のエイブラハム・ラボリエル・ジュニアです。 今ではドラマーとして結構活躍する様になりました。

PCI:ジュニアは今やドラマーとして大活躍ですね。 そうですか、当時は奥さんのサポートのためにクリーブランドにいて、その後ヘンリー・マンシーニのレコーディングに誘われたんですね?

Abe:はい、その当時ワイフは医者のインターンとして毎週115時間働いていましたね。 また、親と子供が離れて暮らすのは子供のためにも良くないと思ったので、音楽を止め子育てに専念したんです。 その後、ヘンリーがロスに誘ってくれこちらに来た訳です。 大変有り難い話でした。

PCI:結局ロサンゼルスに来たのは何年だったんですか?

Abe:1976年の7月4日です。 この日は独立記念日でしたから、電飾や花火でロサンゼルスの人達みんなが私を大歓迎しているような感じでした。(笑)