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2010年3月15日

1976年8・8 ROCK DAYに出演までの道のり

塩次さんとの出会いで、がぜんやる気を出した僕たちは、ウェスト・ロード・ブルース・バンドのライブやコンサートを追いかけ観まくりました。
やはり京都の老舗「拾得」でのライブ、京大西部講堂のコンサートは今でも鮮明にその格好良さを覚えています。
演奏曲を覚えて帰り、その曲が入っているレコードを捜し聞くことが楽しくてならないようになりました。
しかし、当時のブルースのレコードはなかなか手に入れる事が出来ず困っていました。そんな時、塩次さんに大阪の「サカネ・レコード」を紹介してもらいました。そこにはブルースを素晴らしく知っておられる“吉村”さんという方が、おられ、良いレコードを数多く教えてくださいました。本当にありがたいことでした。
BBキング、マディー・ウォーターズ、マジック・サム、オーティス・ラッシュ、ジュニアー・ウエルズ、バディー・ガイ、ローエル・フルソン等を聴きあさりました。

僕達のバンドもVo・福島岩雄、G・船岡辰哉、B・池上宏一とGに私のメンバーは決定していました。Dr.の人もいたのですが、当時はバンドをやる事は不良であると言う認識が一般的だったので、その人は、活動を続ける事が出来ない状況になっていました。
また、私の小学校時代からの友人、山本修一さんがハービストとして出来る限りで参加してくれていました。
当時、河原町丸太町下がる西側のビル4階にKBSと言う練習スタジオがありそこで、ウエスト・ブルース・バンドに続けと練習を重ねていました。
京都ではたった一つの練習スタジオだったと思います。
そこで、Dr.を募集したところ、今でも仲間として共に演奏している小川進さんが応募して来てくれたのです。
いろいろ話をした結果、バンドに入ってもらうことに決定しました。
やっと、メンバーが揃いました。
そこで、全員の意見がまとまり、塩次さんバンド名の命名者になってもらおうと言う事になりました。
塩次さんは快く引き受けてくださり、候補のバンド名が出来たので家に来て欲しいと連絡がありました。
ワイワイと相談した結果、最後に、ファッツ・ボトル(太っていて脂ぎった男のシンボル)・ブルース・バンド名とウインティー・シティー(シカゴの風邪)ブルース・バンド名が候補として残りました。僕たちは即、ファッツ・ボトル・ブルース・バンドを選び決定しました。
その後に、ウインディー・シティー・ブルース・バンドと言う名前のバンドも出て来て活躍されていました。
塩次さんには、その時も大変お世話になりました。

その後は、僕達の目的である、「拾得」ライブに出演する事に専念し、練習に励みました。新加入した小川さんにブルースのドラムを覚えてもらうため、ウエスト・ロード・ブルース・バンドの松本輝雄さんに練習スタジオまでゲストで来て頂き、一緒に音を出していただき練習を重ねました。輝雄さんは僕らの年齢に一番近く、気楽に快く引き受けていただきました。凄く良い練習になりました。小川さんも凄く良い感じのドラミングになってこられました。
その練習テープ(カセットテープ)を、心臓が張り裂けそうになりながら拾得のテリーさんに持って行き、出演をさせて欲しいと話に行きました。
 
それは後数日で20歳になる頃でした。
その時に演奏していた曲は、ブルー・シャトウ・フォーリン(BB King)、リコン・シダー・ベイビー(ローエル・フルソン)、アイム・レディ(マディ・ウォーターズ)、スナッチ・イット・バック・エンド・ホールド・イット(ジュニアー・ウエルズ)等です。(今と変わっていない〜!)
テリーさんから、何時出演する?と言ってもらえました。

       続く
塩次さん.jpg
1975年20歳の写真

投稿者 haru : 12:14