第7回:きっかけ


初めてギターを手にしたのは、確か10歳の時だったと思う。 3歳年上の兄が始めたクラッシックギターを、「かっこいいな。」と憧れの目で見ているうち、いつのまにか俺自身もギターを抱え、コードの押えかたを憶えながらお気に入りのフォークソングを唄っていた。フォークソング熱は次第にロック熱へと伝染し、中学生の頃にはバンドを結成し、ビートルズやストーンズ、ディープパープルなんかをギャーギャー言いながらやっていたのだが、ある時、兄のレコードラックからこっそり引きずり出して聴いた二枚のブルースアルバム 「スリーピージョン・エスティスの伝説」と「ライヴ ボビー・ブランドとBBキング」が俺の音楽指向を大きくブルースへと傾ける。

何かの本で読んだ、岡本太郎のこんな言葉を思い出す。
「『美』とは、『一体、なんなんだこれは?!』と、視線が嫌でも吸い寄せられてしまうもの、
見るものへの媚びへつらいなどそこには微塵も無い。」。しゃがれてささくれ立ち、唸るような歌声、つまづき踊るようなギターの音、その瞬間「ブルース」はスリーピージョンを媒介に、俺の五感を完全に吸い取ってしまった。そしてそれまでに聴いたロックギタリストのそれとは比べ物にならないほど少ない音数なのに、まるで魂が入り込み歌っているかのようなBBキングのギターは、ボビーとBBの深く熱い歌声の間を流れ、その時以来、俺の生活は明けても暮れてもブルースギター、ブルースギターしか信用出来なくなっていた。もちろん、その後もロックやフォークを全く聴かなくなった訳ではない。ただ、「ブルース」のない音楽には、身体が反応しなくなっていったのは事実だった。

もう、ただしゃにむにレコードを聴き漁り、ギターを弾き、スーパースターを夢見た。スーパースターかどうかは別として、とりあえずプロフェッショナルとしてギターを弾きたいと、自分の将来と音楽とのディスタンスを具体的に思い描き始めたきっかけが、中三の時、卒業もまじかの大晦日の深夜テレビで観た、映画「ウッドストック」だった。ものすごい形相で噛み付くようにギターを弾くアルヴィン・リーに完璧にノックアウトされた。まるで情熱を音に変換するかのごとく演奏するサンタナ、ジョー・コッカー、リッチー・ヘイヴンス。喜び、悲しみ、怒り、全ての感情を白いストラトキャスターの六本の弦に織り込み、次の瞬間にはそれらをいっきに爆発させるジミ・ヘンドリックス。この映画での彼らの演奏が、俺にとっての音楽を、ただの「楽器演奏」から「感情表現」へと昇華し、それ以来、一生涯音楽にどっぷりと浸り続けたい、プロとして演奏したい、と強く願うようになった。

何かのTVコマーシャルではないが、これらの「きっかけ」が無ければ、今の「俺」は全く違った「俺」になっていたのかもしれない。19歳の時から東京で約10年、プロミュージシャンを夢見て頑張ったが、何も起こらず、気が付けば29歳になっていた。夢をあきらめ、自分自身に大きな一区切りをあたえる意味で30歳までの一年をNYCで過ごす事に決め、1992年の2月にミッドタウンにある長期滞在用ホテルへ引っ越し、翌3月にはブルックリンのアパートに落ち着いた。

活気に溢れるNYCの音楽シーンにどっぷりと浸るべく、俺は毎晩のように生演奏を聴き、時にはジャムセッションに参加し、驚きと喜びの毎日が続き、そしてなんと、翌月の中頃には初めての「ギグ」に参加し、金を稼いだ。ニューヨークでミュージシャンとして金が貰える、正直なところ、これは全く予想外だった。その最初のギャラが$15。タクシー代にあっさりと消えた。それでも本当に嬉しかった。

その後、月2、3回のペースでギグが入った。自分の中に情熱が蘇るのを感じ、出来るだけ多くの人の前で出来るだけ多くのミュージシャン達と演奏し知り合い、なんとか「月2、3回」を「週2、3回」にしようと、ギターを抱えて毎晩マンハッタンへ出掛けた。危険な時間帯に危険な地下鉄ラインを使って移動しなければならないリスクにも目をつぶり、帰宅後も寝る間を惜しんでギターを練習し、「出来る事を全部やれば、なんとかなる。」と、4ヶ月頑張った。

...が、現実は甘くない。ギグの数は増えず、生活資金は減るばかり。音楽とは無関係のバイトをする気には全くなれず、日に日に弱気になってゆく自分を見るのも嫌だし、はじめの自己約束より随分あっさりと気が抜けてしまったようで情けない話だが、もうあきらめて日本に帰ってしまおうか、という気持ちになっていた。明日にも帰国への片道チケットを買おう、という夜、当時のルームメイトで、俺より二年長くNYCに住むアーティストのT君が、「最初の一年は、ニューヨークがヒロさんを見てるんだよ。4ヶ月じゃ答えは出ないよ。」と話してくれた。彼のこの言葉はグッと心にくるものがあったのを憶えている。

そしてそれから僅か数日後にこんな出来事があった。
...ある晩、友人がミッドタウンの小さなスペースでジャムセッションをするというので覗いてみた。平凡で退屈なジャムで、何のハプニングも起きなかった。例によって深夜の地下鉄で帰宅する倦怠感と、やっぱり今日一日何も良い事の無かった失望感で重くなった足を引きずりながら駅へ向かう途中、ある店から聴き慣れたギターの音が聞えて来る。覗いてみると、当時親しくしていたギタリストが演奏している。彼がステージから「弾いてけよ!」と薦めるので、ちょっと気は重たかったがプレーする事にした。1、2曲演奏するうち、年齢40、50代、タキシード姿のいかにも裕福そうな男達が5、6人、どやどやと店に入って来た。さしずめ「パーティーの後に軽く一杯。」という感じで、別にバンドに興味があって来た訳では無さそうだ。ただその中に、髪を腰まで伸ばし、がっちりした体格の、非常に存在感のあるネイティヴ・アメリカンの男が一人おり、店中の視線を集めながらも一人興味深げにバンド演奏を見つめていた。

その後俺は引続き数曲を演奏し、いつもの様にバンドメンバーに礼と別れを告げ、地下鉄駅へと向かった。重い足取りで。とぼとぼと歩いていると、背後で誰かか誰かを呼び止める声がする...“Hey, hey, wait..., just a minute...!"「おい、ちょっと、待て!」と。振り向くと、さっき店にいた例のネイティヴ・アメリカンの男が長い髪をなびかせ、ピカピカの靴を躍らせながらこっちに走ってくる。「ええっ、俺?!?!」と、立ち止まりポカンとしていると、「なあ...、ちょっと...、まあ、待て。話をしないか...。 なあ...、君は何処から来たんだ?
...そうか、日本人か。どれくらいニューヨークに住んでるんだ? ...
ふーん、4ヶ月...。まあ、聞いてくれ。今夜、俺はあのライヴハウスに立ち寄って本当に良かったと思っている。何故なら、君の演奏を聴けたからさ。君の演奏は、俺をまるででかいコンサートホールで最高のバンドを聴いているような気分にさせてくれた。ありがとう。
...何か、礼を言いたくてね。 ...ええっと...、少ないけど...、あれ、ホント少ないな...、
でもこれ以上あげると、帰りのリムジン代が無くなっちゃうから、ゴメン...、これチップ。
NYでプレイし続けるんだろ?...そうか...、日本へ帰るのか...、
ふうん...、簡単じゃあないからな、それは良く解る...。
でもひとつだけ俺の頼みを聞いてくれ...。
俺は君のファンだ。だから、君がこの先何処へ行って何をしようと、ギターを弾くことだけはやめないでくれ。それでもし...、ああ、そう、そう、これ、俺の名刺...俺もアーティストなんだけどね...、もし俺の街に来るような事があったら、必ず連絡してくれ。じゃあ、おやすみ。」。

彼は1ドル札8枚を俺に握らせ、待たせているリムジンへと走っていった。こんな弱気な俺の演奏に感動し、「ありがとう。」と言ってくれる人がいた。そして「続けてくれよ。」とも言ってくれた。地下鉄ホームのベンチでしばらく動けなかった。燃え尽きかけていた自分の中の情熱がくすぶり返す音を聞いた。

翌日、既に購入していた片道チケットを往復チケットへ変更した。そしていつか必ずあの男の前でもう一度演奏したいと思った。思い出すと、これも現在の自分への、大きな大きな「きっかけ」の一つだったと言える。あれから10年以上、俺はずっと走り続けて来た。そして、世界中を演奏旅行する環境、あの男の住む街を訪れるチャンスも少なからずある現在の環境に、やっと自分を置くことが出来た今、走るスピードを少しだけ落として自分を見つめてみると、俺は彼との再会を今でも楽しみにしており、その時がまた俺にとっての大きな「折り返し点」、つまり「きっかけ」になるような予感がしてならない。

HIRO SUZUKI

蛇足その1
「あの男」とは、アリゾナで宝飾デザイナーをする(していた?)、フィル・ナブサヤという男である。今でもあの長い髪をなびかせて、人々の注目を浴びているのだろうか?是非、お元気でいて欲しいと思う。

蛇足その2
確かに、13年目にしてやっと、俺はギタリストとして世界中を旅する事が出来るようになった。そして同時に、13年目にしてやっと、(プロ・ブルース・ミュージシャン)=(長距離運転手+運送屋+ミュージシャン)であると、身体をもって実感している。

ヒロ鈴木はデボラ・コールマン(Deborah Coleman)バンドのリズムギタリスト。
デボラ・コールマンのサイトは↓
http://www.deborahcoleman.com/index.htm

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