第20回:無題、または随想(その1)

いったい今日まで何人位のミュージシャン達とステージを共にしてきただろう? 今でも頻繁に連絡を取り続けている奴もいるし、忘れかけた頃にステージ上での再会をよろこびあう間柄もある。また中には、見覚えはあるのに名前が思い出せなかったり、むこうから声をかけられてもそいつが誰だったかさっぱり思い出せない奴もいたりする。以前にもこのコラムで話したが、ニューヨークでプロとして初めて参加したのが、ムースという男のバンドだった。ムースはギグのたびに俺を含めた4〜5人のギタリスト達の中から2人を、その時のアヴェイラビリティーに応じて雇っていたのだが、その中でももっとも頻繁にプレーしていたのが、ノーマン・ロスという男だった。初めてノーマンと会った時、いきなり日本語で「ハジメマシテ、ワタシハ日本ニ住ンデ、ギターヲ弾イテイマシタ。」と話しかけてきた。あのミーちゃんケイちゃんのピンク・レディーのバックバンドのメンバーとして日本中をツアーしていたのだというのだ。「みーチャン、トッテモせくしー。けいチャン、時々顔色ガ悪イヨ。」とかなんとか言って、会うたびにいろいろと面白おかしい体験談を聞かせて笑わせてくれたものだ。俺もノーマンも他のバンドとの仕事が忙しくなるにつれ、またムース本人との仕事上のトラブルにたびたび見舞われるにつれ、徐々にこのバンドとの活動が疎遠になり、いつのまにかおたがいの音信が途絶え、気がついてみると12年がたっていた。半年程前、久しぶりにムースのギグに顔を出した時にノーマンのことを聞いてみると、やはりまったく連絡を取っていないとのこと。

ところがごく最近、スタジオワークで偶然一緒に仕事をしたあるエンジニアが、「ヒロ、ピンクレディーってアイドル・グループ、知ってるだろ?俺はあのバンドにベーシストとして参加しそうになったんだよ。」と突然言いだした。「友達のギタリストから誘われてね、もう少しで日本に住んでツアーするところだったんだ。」...思いがけないところから思いがけない奴の話が出たと思い、「へぇーっ!それってノーマン・ロスだろ?!よく知ってるよ。久しぶりだなぁ。あいつ、今どうしてるんだ?」と聞きかえすと、「三ヶ月前に亡くなったよ、肝不全。酒とドラッグのやりすぎでリハビリしてたんだけど、遅すぎたんだよね。」...。どんなに激しく喧嘩をし、どんなに長く絶交していても、時間の流れがいつのまにかネガティヴな執着をきれいに洗い流し、懐かしい再会を演出してくれる可能性はいつでも大で、そんな偶然の再会はどんな時でもおたがいをうれしく暖かい気持ちに満たしてくれるものだ。しかし「死」はその可能性を完璧に消し去ってしまう。「ノーマン・ロス」という懐かしい名前との、「死」という永遠の別れを伴う、やりきれない再会だ。ノーマンよ、どこかでばったりと再会できる日を楽しみにしていたが、どうやらおわかれだ。俺はお前を忘れない。安らかに眠れ!

27日に6月のツアーが終わり、ネヴァダ州リノからニュージャージー州ニューアーク空港へ早朝のフライトで帰ってきた。オークランド、サンフランシスコ、シアトル、オレゴン州ベンド、そしてラストはネヴァダ州のリノで締めくくり。短いツアーだったが、西海岸の気候は穏やかで、心身ともにリラックスした良いツアーだった。湿度が低かったことが原因の一つなのではないかと思うが、どうだろうか? 特にこの恐ろしく高温多湿のニューヨークに帰って来てしまうとひどくそう痛感するのだ。このツアーで印象的だったのが、リノのフェスティヴァルで一緒だったエルヴィン・ビショップ。御歳62歳、彼の演奏は音楽の楽しさを聴く側にたっぷりとアピールする。元気があって明るくて、「あぁ、今日はここに来て良かった!」とかならず満足させてくれる。ステージの真ん前でアメリカ人の田舎者丸出しオヤジ達が涙流しながら喜んでいる。アンコールではエルヴィンが俺をステージにひっぱり上げ、あの伝説のES345をさしだし、一言“PLAY!”。待ってましたとギターを受け取り、、「ありがとう、エルヴィンさん!」と言わんばかりに思いっきり弾き倒した。ショーの後、挨拶と御礼を兼ねて楽屋に立ち寄ると、「どう、仕事の方は? うまくいってる?」とむこうから声をかけてくれた。「今、自分自身のデモをレコーディング中です。この一年をなんとか乗り切って、あせらずに様子を見ます。」と答えると、彼は大きくうなずき、「誰にとってもひどく厳しい時代になってしまった。我慢してやってゆくしかないよ。慌てちゃダメだ。」と励ましてくれた。

エルヴィンとの親交がはじまったのが今から5年前の2000年、マンハッタンのBBキングクラブでのショーで、たまたま当時参加していたバンドが彼の前座としてブックされたのがきっかけだった。(ショーは二部構成で、俺達のバンドとエルヴィンが交互に二回づつ演奏した。)エルヴィン・ビショップは、学生の頃からのワン・オヴ・マイ・フェイヴァリット、最初のショーの真っ最中も、いつ彼がやってくるかとステージの上から楽屋口が気になってしかたなかった。交通渋滞に巻き込まれたということで到着が大きく遅れ、結局俺たちの演奏が終ってもやってこない。「遅いな...。」と心配しつつ自分の楽屋に帰り、冷たいビールを空けてくつろいでい
ると、突然、ドカン!と大きなトラヴェルケースがドアにぶつかりながら入ってきた。ソファーから飛び起きて唖然としていると、「ごめんなさい、遅れた!」と言って部屋に飛び込んできたのがなんとエルヴィン・ビショップ本人だったのだ。

「うっ、うわーぁっ、ホンモノだぁ〜ぁ!!!」と絶句してしまった。しかし彼は今夜のメインアクト、レジェンダリー・エルヴィン・ビショップなのだから、個室の楽屋が当然用意されている。気を取り直して「あのぅ...、貴方の楽屋はステージのまん前ですよ...。」と恐る恐る言うと、彼はそのままギターケースを開け、ギターを取り出しながら「あぁ、ごめん、でもさ、ギターケースだけここに置かせてもらっても良いかな? あっ、俺、エルヴィン・ビショップ。君は? ヒロ? オープニングのギター?!、 ファーストセット、どうだった? アンプは何を使った? あれっ、日本人? 俺、日本語を勉強してるんだよ、俺のオクサンは日系アメリカ人...。」などと言いながらギターをチューニングし、ドタバタとそのままステージに上り一回目のショーをスタートさせた。約一時間のショーを楽しませてもらい、次のセットの準備のために楽屋に戻りギターをチューニングしていると、演奏を終えたエルヴィンがギターを抱えたまま、いきなり開口一番「ヒロさんは、日本はどちら?」とまた俺の楽屋に直接戻ってきたのだ。俺は準備の手を休めず、しかし夢中でエルヴィンと話をした。エルヴィンも自分の楽屋に帰ろうとはせず(結局この日、彼は一度も自分の楽屋を使わなかったのではないだろうか?)、音楽のことやツアーのことを、リラックスしながら話してくれたし、俺からの質問にも嫌な顔一つ見せずに一つ一つ丁寧に答えてくれた。二回目のパフォーマンスが始まると、エルヴィンは今度はステージの袖からじっと演奏を聴いてくれている。それこそ夢のような気分だった。そして演奏後、自分の機材をステージから片付けていると、エルヴィンが “Just leave your amp on the stage. At the last song, I'll call you and we jam. OK?” と耳打ちした。嬉しくて頭の中がまっしろになってしまった。

それ以来、フェスティヴァルなどで一緒になるとエルヴィンは必ずといっていいほど俺をこんなふうに飛び入りさせてくれている。もちろん、俺は後先考えず火が付いたように弾いて弾いて弾き倒す。これから先、俺が俺のミュージシャン人生においてどんなに濃厚な経験を積めたとしても、あらゆる面においてこの男には絶対にかないっこない。だからエルヴィンの手のひらの上に乗るチャンスを得たときは余計なことは一切忘れて徹底的に暴れまわる。エルヴィンはそんな俺をいつも笑いながら見ていてくれる。何よりもうれしいのは、この波乱万丈の人生をおくってきたこの大ヴェテランギタリストの野太く暖かいトーンと、彼自身の持つ大きく優しい人間性に、同じステージの上でプロのミュージシャンとして触れるチャンスを人生の中で得られたということだ。エルヴィンは俺にとって最高のアーティストのひとりだし、最高の友達のひとりだし、日本語で言えば最高に頼りになる先輩のひとりでもある。とてもカントリー・ロック寄りのブルースマンだが、なんといっても、彼が彼のオリジナルへ味付ける、塩加減ならぬ「ブルース加減」が大好きだ。ライヴアルバム「ライヴ!・レイジン・ヘル」がマイ・フェイヴァリッド。スタジオ盤の「レット・イット・フロウ」も良い。そしてこれはちょっとマニアックな内容になるが、彼のギタートーン、これが素晴らしい。とんでもなくファットで粘りのあるトーンなのに、非常に硬質でエッジの鋭いコアがある。さっき「伝説のES345」と書いたが、この345はエルヴィンがバターフィールド・ブルース・バンドの時から今日まで一貫してメインで使用しているギターだ。それにフェンダーアンプをエフェクトペダルなしで直結。同じギター一本を無数のシチュエーションで40年間使い続け、そのギターを知り尽くした者のみが得られるオリジナルなトーンなのだろう。俺もきっと335だけをこれから40年以上使い続ければこんな個性的なトーンを勝ち得ることが出来るのかもしれないけど、しょっちゅうギターを持ち換えてるからダメかもね。

最後に、これはまったくの余談だが、エルヴィンは日本語が堪能だ。特にライティングの上手さは半端ではない。時々彼から日本語の手紙をもらうことがあるが、並みの日本人より遥かにボキャブラリーが豊かだし、文法もほぼ完璧だ。先日のリノでは、「ひろサン、りずむせくしょんハ、日本語デ、ナントイイマスカ?」と聞くので、「えーっと、RIZUMU‐TAIかな...」と答えると、すかさず紙とペンをポケットから取り出して、「『リズム隊』?コレデ、イイデスカ?」と一発で漢字を当ててみせたのには驚いた。「イマ、私ハ、常用漢字ヲ、二千字、書ケマス!」と自信たっぷりだった。

ニューアーク空港はニュージャージー州の空港だが、マンハッタンからはハドソン川を挟み車でわずか40分足らず(もちろんこれは交通の流れによるけど。)で、JFK,ラ・ガーディアと並ぶ第三のマンハッタンの玄関口である。格安航空券でNYを旅されたことのある方などには、すこしは聞き覚えのある名前ではないだろうか。ここからマンハッタンへ入ってゆくために使われる交通手段のうち、最もポピュラーと思われるタクシーサービスで、とても興味深いことがあった。今から4年位前だったろうか。マンハッタン周辺のこれら三大空港のタクシー乗り場には必ず係員がいて、我々利用者はまず始めにこの係員に行き先を告げる。各空港とも、行き先がマンハッタン内の場合には決められた運賃があって、その金額と乗車するタクシーのナンバーを小冊子に書いて渡してくれる。この小冊子には、空港からタクシーを利用する際の注意事項や、トラブルが起こったときの連絡先などが日本語や中国語を含めた6〜7ヶ国語の言葉で記されており、こうすることで悪質なドライバーによる不法な請求から英語の苦手な観光客を守るように配慮されているわけだ。

その日はヨーロッパのツアーからの帰りで、行き先はマンハッタンのイーストヴィレッジ。係員は小冊子に42ドルと書いたので、「これはトンネル代も含まれた値段か?」と聞くと、「そうだ。42ドルが全運賃だ。ただこの42ドルにはチップは含まれていないから、チップはドライバーに払ってやってくれ。」という。(マンハッタンに入るトンネルや橋は有料が多い。)...ということは、降車時に大体6〜8ドルのチップを想定し、多くても50ドルの支払いを想定しておけばまず問題はないことになる。ところがタクシーに乗り、再確認のため直接運転手に金額を尋ねる(これがとても大切だ!)と、48ドルだと言う。すかさず係員が小冊子に書いた42ドルという数字を見せると、この運転手はいきなり大声を張りあげ、「これにはトンネル代が含まれてねーんだっ!」とまるで脅すように言い返してきた。俺は心の中で...出たな...、と思いながら、「そんな大声を出すなって。俺はこの6ドルの差がなんなのかを知りたいだけなんだ。係員はトンネル代も含めて42ドルって言ってたぜ。車を止めろよ、係員に聞いてみるから。」と言うと、「そんな必要はねぇ!48ドルだ!」と頑として聞かず、車を発進させてしまったのだ。俺は笑いながら「「OK,わかった、じゃあ、ここで降りるから今すぐ車を止めてくれ。もう一度列に並びなおして他のタクシーに乗る。アンタが止めないのならこの(小冊子の)電話番号にこれから電話してなんとかしてもらうか、911(警察)に電話してみるよ。」と言うと、「おい、たのむよ、トンネル代込みの42ドルじゃ俺の儲けにならないんだ。組合の連中はなんにもわかっちゃいねーんだ。いいか、48ドルだ。」と、声の大きさはそのままながら、弱気な物言いに変えてきた。俺は笑いながら、「おい、俺はアンタに怒ってるわけじゃねーって、だから頭を冷やせって。そんなに大声出さなくても聞こえるよ。おれはアンタが嘘をついてるとはいっちゃいねぇし、アンタにチップを払わないとも言ってねぇ、そこんとこを忘れんなよな。繰り返すが、俺はこの6ドルの差がいったいどこから来たのかを知りたいだけなんだよ。それにアンタの言ってることが本当なら、なぜそんな割の合わない空港サービスにこんなに多くのタクシーが殺到するんだ? どの運転手もみんなそんな大声で客を怒鳴りつけてるっていうのか?」とここまで言うと運転手は何も言い返さなくなってしまった。さらに、「オイ、聞いてるのかよ...? もし俺が白人の客(因みにこの運転手はアフリカン・アメリカン。)だったら、今頃問答無用でドアを開けて警察でも空港セキュリティーでも大声で呼んでいる、そんなところが相場だろ。」...この問いかけに運転手は小さな声で「イエス。」と答えた。さらに、「もしかしたらアンタは全部の客にそうやって48ドルを大声で請求しているわけじゃないんじゃねぇのか? 俺がアジア人だからそうしたんだろ。今までのアジア人の客はみんな黙って48ドルを払ってきたんだろ?」と聞くと、驚いたことにこの運転手はこの問いかけにも「イェス」と答えたのだ。

アジア人の客は文句を言わず、要求額プラスチップを黙って払う、扱いやすい客だ、そしてこれはタクシー運転手の間では暗黙の常識だ、というのである。「つまり、アンタは俺をスキンカラーでジャッジしたわけね...。」俺がこう言ったのを最後に、運転手はそのまま終始無言でマンハッタンのイーストヴィレッジまで俺を運び、アパートの前で車を止め、運転席に座ったままトランクを開けた。俺は自分でトランクから荷物をひっぱり出し、運転席側まで行き、「俺は空港で係員から42ドルと聞いたときに、チップ込みで最低でも50ドルを払おうって思ってアンタの車に乗った。(肩のギターケースを見せて)マンハッタンに住んでるミュージシャンにとって、タクシーはライフラインなんだよ。だからいつもチップは俺なりにはずんでるつもりさ。でもとてもじゃないけどアンタみたいな運転手には1っセントもチップする気にはなれないよ。」と言って20ドル札2枚と1ドル札2枚を窓越しに差し出した。運転手はその42ドルをむしりとり、無表情そして無言で走り去った。タクシードライバーにとって乗客からのチップはとても重要な収入源なのだと聞く。チップの習慣に馴染みの薄いアジアからのツアリストを乗客にとった時、相応のチップを請求することはドライバー達にとって傍から想像するよりもずっと困難なことなのだろう。それにしても、もしこの運転手の言っていることが本当ならば、いくらなんでも何故ここまで俺達は舐められてしまったのだろうかと呆れてしまう。このアメリカにアジア系アメリカ人が一体どれ位住んでいて、そのうちのどれくらいがこの俺よりアメリカの文化に馴染み深く、そして悠長な英語を話すというのだろう? 俺はこのニューヨークに住んでたった13年、恥ずかしいことだが英語だってせいぜい中学生並だと常々自戒している。でもいくら英語がおぼつかなくたって、舐められたら腹をたてて当然だ。少なくとも毅然とした態度で反発の意思を相手にぶつけ返す、それがこの国のルールってもんだと思うのだ。

以前、ハーレムのある大きなジャムセッションに友人の日本人ミュージシャンと出掛けたとき、かなり高齢(50代後半だろうか。)の日本人ギタリストがやはり参加しており、この男の俺達二人に対する態度と、それ以外のアメリカ人達に対する態度の違いに唖然とさせられたことがある。俺達に対してはとにかく高慢で、自分がどれだけ長くアメリカに住み、過去にどんなに大きな仕事(実際にこの男は、かつて日本の音楽シーンではかなり成功し財を成したらしい。)をしてきたか、そして今現在どんな有名ミュージシャンと交流しているかを延々と語る。かたやアメリカ人たちに対してはその驚くほどおぼつかない英語力でむやみやたらにへらへらと笑い、ぺこぺこと媚びへつらいながら後をついて歩くばかりなのだ。その姿を見ていて、とても貧しい気分になった。帰り道、友人が「上の奴らがあんなだから俺達がこんなに苦労しなきゃなんねーんだ。俺たちのほうがずーっと堂々としてるじゃねーか!」と吐き捨てた。これらは4年も前の話である。現状は少しは良くなっていることを心から願わずにはいられない。

最近、また少し「揺れ系」のエフェクト・ペダルに興味を持ちはじめている。デボラとの仕事の際は、デボラ本人の要望に答えてコーラス・ペダルを使用する。コーラス・ペダルは各メーカーによってかなりの違いがあるので、まだなかなか「これだ!」といえるものに出会えていない。ちなみに、現在俺がメインに使用しているのはダンエレクトロのクール・キャット。価格もリーズナブルだし、18vの電源電圧で、なかなか暖かいエフェクトを得られる。デボラ以外の演奏の時は、まずほとんどコーラスは使わず、もっぱらボスのトレモロTR-2を使用する。これは使いやすいペダルだ。それにしても、小型で使いやすいB-3オルガン(ロータリースピーカー)のシミュレーター(エフェクト)ペダルはどこかにないだろうか? 今までに試してきた「揺れ系」ペダルで、それに最も近いと思ったのが、LINE6のMM4に含まれている “Rotary Drum& Horn”で、これはかなりよく出来たエフェクトでレコーディングで時々使用し、気に入ってはいるのだが、いかんせん本体が大きくて重く、またそれに加えて電源アダプターがやたらと重く、さらにエクステンション・ペダルも必要となり、持ち運びが非常に不便である。それにもましてコントロールがややこしくてわかりづらく、とてもライヴ演奏向きといえるシロモノではない。もしMM4“Rotary Drum& Horn”並みのサウンドクオリティーを持つコンパクトで使いやすくそれなりにリーズナブルなオルガンシミュレーターがあれば、ためらうことなく飛びつくのだが...。
(2005年7月7日)

今月の写真
先月終わりのネヴァダ州リノでのフェスティヴァルでエルヴィン・ビショップのショーに飛び入りしたところを何人かのカメラマンが撮影しており、写真を送ってくれると約束してくれたのだが、まだ一枚も届いていない。トホホ...ならば、最近のレコーディングセッションから。

写真その1


レコーディングエンジニア、ブルース・ゴードン氏とテイクをプレーバックしているところ。
音楽のミックスダウンとは、まるで画家が絵の具をキャンバスに乗せながら
美しい絵を完成させるかのようだ。ブルースは素晴らしい「画家」なのだ。

写真その2


スライドソロをオーヴァーダブ中!
俺はスライドバーを中指につける。
こうするとスライドも安定するしミュートもかけやすいし、
なによりもコードプレーが容易になる。
スライドバーはガラス製がなによりなのだが、壊れやすいのが最大の欠点。
ツアーには必ず金属製(自動車用品店で購入したボルト・ソケットを加工)を持って行く。
ちなみにこの写真で使用しているのはワインボトルをぶった切ったスライドバー。
表面の微妙なデコボコが良い味を出してくれる。


写真その3


道端に落ちていた家具の裏板を拾ってきて造ったペダルボード。
大抵のギグはこれで十分。シンプル・イズ・ザ・ベスト!

ヒロ鈴木はデボラ・コールマン(Deborah Coleman)バンドのリズムギタリスト。
デボラ・コールマンのサイトは↓
http://www.deborahcoleman.com/index.htm

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