第15回:2004年、日本の旅 - その3
GRUMPY JUKE 登場


...ヴァージニア州のウルフ・トラップという所でブルース・フェスティヴァルに参加したことがある。 確か、あれは2000年の夏だったと思う。俺の参加するバンドがオープニング・アクトをつとめ、二番目がドクター・ジョン、そしてトリはウイルソン・ピケットだった。ドクター・ジョンのユニットは、ドラム、ベース、ギターと彼自身というシンプルな4人編成だったが、これはもう、4年半経過した今でも、俺が観た中で最高の四人編成、究極のカルテットだと言える。ここまで豊かな音楽がたった四人のミュージシャンによって創造できるものなのかと、心から感動させてもらったし、ギタリストのレナード・プルシェという男の音楽感性には同じギター弾きとしてただただ溜息が出るばかりだった。どんなに時間がかかってでも、あんな充実感のあるロック/ブルース・バンドを構築したいとつくづく思ってしまう。フェスティヴァルのトリは大御所ウイルソン・ピケット。メンバーの中の二人、ドラマー(クラッシャー・グリーン)と第一サキソフォン(ダニエル・シプリアノ)が以前からの知り合いで、サウンドチェックの段階からステージサイドで演奏を観させてもらった。エンターテイメントに徹したバリバリのプロ集団、「かっこいい。」の一言だ。本番中はステージ下手(しもて)から、俺の参加するバンドのメンバの一人でヴェテラン・キーボード・プレーヤーのトミー・スティンソンと一緒に彼らのパフォーマンスを見守っていた。トミーとはこのツアー中、ルームメイトとして行動を共にさせてもらったりもしたのだが、フェスティヴァルの後の彼の言葉が印象的だった。

「おい、ヒロ、ウィルソンのバンドの二人の若いギタリストを憶えているか?」...確かに、長髪でハンサムな若い白人のギタリストが二人いた。憶えているよ、と答えると、「あの二人とオマエ自身と、誰が一番レベルの高いミュージシャンだと思う?」とちょっと怖い顔でさらに質問する。今夜の演奏を観ただけではちょっと分からないと答えると、「いや、遠慮しなくて良い、オマエには分かるはずだ。俺にもダニエルにもクラッシャーにも、簡単に答えられる質問だ。あの二人よりもオマエの方がギタリストとしてのレベルはずっと高い。それでも、オマエがあのバンドに参加する確率は後にも先にもゼロだ。絶対にありえない。その理由はもう分かるだろう?俺が言いたいのは、今オマエがこの国でやろうとしていることは、オマエにとってとんでもなく難しいことなんだ、ということさ。オマエだけじゃない、これはすべてのアジア人ミュージシャンに言えるんだ。これがショー・ビジネスってもんさ。」...この忠告には思わず武者震いがした。

そのフェスティヴァルで俺とトミーが参加したのは、ブルースマン、サン・シールズのバックアップ・バンド。サン・シールズはエモーションをブルースに注ぎ込むようにプレーするギタリストだ。けっして自分だけをひけらかすような退屈で懐の狭い演奏はせず、俺やトミーのソロをグイグイと煽り立て、自分のソロの炎を一段と燃え盛らせて、バンド全体のグルーヴをより強力で図太くする、まさにスポンテイニアス・コンバスチョンを地でゆくリアル・ディール。サイドギターの分際の俺が思いっきりソロをとって逆にサンを煽ると、ニヤリと笑い、その挑発にどんどん乗って勝負してくれる。そのサン・シールズが昨年の12月20日、糖尿病からの合併症によりシカゴで62歳という若さで亡くなった。残念という気持ちで一杯だ。心から冥福をお祈りしたい。もう一度プレーしたかった。

...月日の経つのは早いもので、...というか、そのスピードは年をとればとるほどどんどん加速してゆくようで怖いものがあるのだが、...気がつけばもう1月も終わり、昨年11月の日本での演奏ももう二ヶ月以上前の話になりつつある。帰国に際してコミットしたいくつかのギグやセッションの中から、俺自身にとって最も重要だった11月28日の渋谷クロコダイルでのパフォーマンスについて、忘れないうちに書いておこうと思う。

11月の帰国では、少なくとも一回は自己のオリジナルのユニット“グランピー・ジューク”でのギグをおこないたいと思い、そのために一つだけどうしてもキープしたい条件があった。それは「ヴォリュームの上限を一切気にせずにプレーできる」ということで、これを満たすギグのできる場所が都内に押さえられたという友人の連絡を受けて、いよいよメンバー選びを開始したわけだ。

日本国内での演奏の話が持ち上がった時点で、既に俺の中ではドラマーは嶋田良隆氏に決まっていた、というよりも、嶋田氏が不参加の場合はグランピー・ジュークとしての演奏はやらないと決めていた、という方が正しい。嶋田氏はブルースにおけるダイナミズムの重要性を熟知している。俺のやりたいブルースには想像を超えるようなレベルのダイナミズムが不可欠で、そのためのドラムは嶋田氏以外考えられず、そして嶋田氏にその大きなダイナミズムを100%表現してもらうためには、ヴォリューム制限のある店はどうしても除外せざるを得なかった。よくドラマーの間で「スナップ(手首)の使い方」云々という言葉を耳にする。詳しいことは分からないが、どうやらドラム演奏には手首の使い方が大切らしい。でも、俺の音楽に必要なのは、どうやら全身で叩くドラマーらしいのだ。

13年前の1992年2月29日土曜日、マンハッタンのイーストヴィレッジにあったブルース・クラブ「ダン・リンチ」でのジャムセッションの、ハウス・バンドのドラマーを当時つとめていた嶋田氏のプレーをはじめて見た時、俺の第一印象は「腕の大きな人だなぁ。」だった。もちろん、嶋田氏の腕が本当に人一倍大きかったわけではない。ただ、嶋田氏は小手先のテクニックからではなく、体全体をドラムセットに叩きつけるようにして図太くダイナミズムに溢れるグルーヴを生みだしていて、それが自然と嶋田氏の両腕を大きく印象付けたのだと思う。一度嶋田氏と同じバンドでプレーしたことがあったのだが(御一緒させていただいたのは全部で半年位だったろうか?)、そのバンドの後が非常にきつかった。何処のどんなユニットで演奏しても、どのドラマーにも満足出来なくなってしまっていたからだ。ポケットの深さ、ダイナミズムの大きさ、そして歌心と、嶋田氏に匹敵するドラマーは過去にも現在にもほとんど出会ったことがない。嶋田氏からギグの参加OKをもらった時、これで何も心配せずに残りのメンバー探しに身を入れることができると安心した。

そもそも今回は、始めは全曲トリオでゆこうかと思っていた。しかしギターを弾きながらヴォーカルをとるパフォーマンスはあいかわらず慣れないし、全曲をトリオでこなすのはかなり難しい。三年前の新宿でのショーで力を貸してくれた小松原貴士氏に再び連絡をとり、バックアップをお願いした。小松原氏はいつもフロント・プレーヤーの「体温」を感じてくれる。俺が非力な唄に集中している時にも、いつも俺の「体温」でバックアップしてくれるので、バンド全体のテンションがたるまず、次のパートへとスムーズに進むことができる。超アップテンポのカントリービートの曲でのリズム・バッキングには恐れ入った。同じグルーヴをあのスピードで5分、6分と安定して続けるのは並大抵ではない。そして何といっても、小松原氏のスローバラードでのコード(オブリガード)プレーが素晴らしい。百聞は一見にしかず、この投稿を読まれている方は是非彼のウェブサイトでスケジュールをチェックして、実際に彼の演奏を聴いていただきたい。あれこそ歌心溢れるギター・プレーだと思う。

ベース・ギターというのは、もしかしたら一番難しい楽器なのかもしれない。最近はローインピーダンス・ピックアップ付きの5弦、6弦ベースを、触れるようなソフトタッチのピッキングで、まるでクラッシック楽器か何かのようにトロロロロ〜...と演奏するベーシストが世界中で主流になっているようだ。しかし、ベース・ギターの押しの強いピッキング・アタックがないと、俺のやりたい音楽ではバンド全体のグルーヴがメリハリをうしない全体がフラットになってしまう。同時に、遊び心というか、ヤンチャ心というか、そんな自由奔放でしかもただ単にドラマーのリズムに迎合するのではなく、強い自己主張のあるグルーヴを太いトーンで4弦ベースからはじきだすベーシストを探すのはとても難しい。現代のロック・バンド、ブルース・バンドにとって、ベーシストを探すことほど難しい作業は他にないのではないだろうか?友人の紹介で渡辺茂氏のお宅にお邪魔し、マンツーマンのセッションをさせていただいた。ドラム・レスのセッションの場合、とかくリズムが揺れてしまいがちになる。しかし、左手がフレットの上を大きく動き回り、フレーズが次々と飛び出してくるというのに渡辺氏のプレーはリズムがまったく揺れない。しっかりしたグルーヴ感と暖かいトーンが俺のギターの背中にぴったりと張付いて、ゆっくりと前に押し続けてくれるようだ。こんなに気持ち良くギターを弾かせてくれるベーシストに出会えるとは思わなかった。渡辺氏の参加が今回のギグのクオリティーを格段に上げてくれたと思うし、将来は是非、渡辺氏とアコースティックのセッションなどもしてみたいと思う。

バンドの中の唯一のソリストとしてギターソロをとり、フロントマンとして唄も歌うという立場でいると、時々自分とリズムセクションとの距離感や温度差がつかみづらくなり、バランスが狂ってしまうことがある。バンドの中に一人、ギターとは全く違ったタイプの個性的なソロ・インストルメントがいて、俺を挟んでリズムセクションの180度反対側にいてくれると、俺自身をよりバンド全体の真ん中に持ってゆくことが容易になり、全体を鳥瞰できるようになる。佐藤イサム氏はサックス・プレーだけではなく、その飄々とした存在そのものでこの役目を果たしてくれたように思えてならない。ステージの上だけに限らず、彼との会話、彼の言葉の一つ一つがショーの前でも後でも俺の気分をリフレッシュしてくれた。

メンバー全員のスケジュールがどうしても噛み合わず、結局全員揃ってのリハーサルは演奏当日11月28日の昼過ぎから都内のリハーサルスタジオでわずか2時間、プラス現場でのサウンドチェックで1時間弱というあわただしさ。リハーサルの結果を自分の中でプレイ・バックする余裕がなく、本番直前にドタバタと落ち着かない、この「当日リハ」というのが俺は苦手だ。そして俺の持ち時間が60分。心身共にヒートアップする頃にラスト・ソングを考えなければならないし、かといってのっけから飛ばすには少々息切れする、あまり得意ではない長さだ。

でも、今回はバテるのを半ば承知で一曲目からトップギアのアクセル全開でスタートした。曲はケヴ・モの“Am I Wrong” をへヴィー・ロック・ブルースのグルーヴで。小松原氏には「フェイセスがブルースやってるみたいにずぶずぶに歪ませてバッキングしてくれ。」とたのんだ。頭の中を空っぽにするために、一曲目から大音量で大汗をかいてしまいたかったし、実際相当な成果があったと思う。強いて言うなら、俺のギターがもっと前に突き抜けてしまっていても良かったかもしれない。

二曲目が俺のオリジナルの詞を乗せたシャッフル。もともとはジャズっぽいコードプログレッションでスウィングのグルーヴに仕上げたかったのだが、リハでどうしても全体のグルーヴがまとまらず、よりストレートなシャッフルブルースにとどめた。最近、つくづく感じるのだが、シャッフルとはブルースの中であんなにポピュラーなリズム・パターンなのに、やればやるほど掴み所を失う、本当に難しいグルーヴだと思う。

今回は三曲目に非常に早いテンポのトレイン・ビート、カントリー・ブルースに乗せた “Blow Wind Blow” を置いたのが、ショー全体を引き締める良い結果につながったと思う。俺がNYに初めてやって来た13年前、NYのブルース・クラブで毎晩のように聴いたブルースが俺の想像を超える実に多様な顔を持つ音楽であることにおどろかされた。その中の一つがこのカントリー・ブルース、トレインビートである。メリハリのあるトレインビートを叩かせたら嶋田氏の右に出るものはいないと、俺は彼がNYにいるときから感じていた。そしてそのグルーヴの上で佐藤氏が縦横無尽に吹きまくる。俺が佐藤氏を煽れば、佐藤氏はそれを倍にして俺に返す。小松原氏と渡辺氏のグルーヴが嶋田氏のドラムに吸いつくように超低空飛行を続ける。五人のミュージシャンが音楽を通してステージの上でぶつかり合い、火花を散らす。「これをやりたかったんだ。」と、もう一人の自分がステージの上の自分に言うのが聞こえた。

四曲目には大きくスローダウンして、ボビー・ブルー・ブランドのバラード、 “Member’s Only” を日本語バージョンで。NYからの友人、イオキベ氏によるとても美しい日本語作詞。この曲で何といってもシビレたのは、小松原氏のバッキング・プレーだ。ダブル・ストップやアルペジオから滑り出すように流れ出てくるフィル(オブリガード)の美しさに、もう少しで歌う事を止めてしまいそうになった。この曲は必ずまた日本でプレーしたい。

ニューヨークに移る前の、東京で演奏していた頃の俺を知る現役ミュージシャンは、今ではとても少なくなってしまったが、そんな中で、俺が東京で組んでいたバンドでリード・ヴォーカルをとり、その後いろいろな事情で歌をやめていた一人の女性が、昨年あたりから10年ぶりに再び歌い始めた。久保ISOGO恵という。五曲目はビリー・ホリディの“Fine & Mellow” をファンキーなシャッフルに乗せて、恵に歌ってもらった。バックアップは俺とベースとドラムのシンプルなトリオ構成。この曲は図太く荒削りに仕上げたかった。一言一言を噛み締めるように歌う彼女に客席から「頑張れ!」と声がかかったが、それは俺の気持ちをも代弁していた。

限られたリハーサルで、初顔合わせのメンバー、それも一回きりのショーである。細かくオーガナイズすること自体が無理なわけで、どうしても部分的にぶっつけ本番のジャムセッションっぽくなってしまったことは否定できない。しかしそれでも、なんとか一本調子にならない、バラエティー豊かなショーにしたくて、いろいろなパターンのブルースにトライした。特に六曲目の “It Hurts Me Too” は、ブルース・スタンダードとはいえ、曲調を変えるアイデアを躊躇せずにどんどん盛り込んだ。そもそもこの曲に手を加えて演奏するというのは、最近のブルースシーンで最も斬新なプレーヤーの一人、ケヴ・モの演奏から得たアイデアで、俺はそれよりさらに輪をかけてスペイシーなグルーヴでトライしたかったのである。この曲では、ヴィジュアライズしてほしいコンセプトをできるだけ少ない言葉で伝えた以外は、とにかくメンバー全員のインスピレーションとアイデアを尊重したつもりだ。リハーサルの段階で、何といっても渡辺氏の大きくうねるベースがこの曲への俺の思い入れを強く煽り立ててくれたし、今回の四人のミュージシャン達の高いクリエイティヴィティーと音楽への情熱を痛感した。ただ、メンバー一人一人のインスピレーションが一つになり、熟成した「曲」に仕上がるには、やはりどうしても時間が短かったと思う。せめてもう一回、ショーをやりたかった。この曲は絶対に今年も取り上げたい。

ニューヨークに移り住んだ当時、俺はすべての面で嶋田氏にお世話になった。彼は他の誰よりも大きく明るいトーチで右も左も分からない俺の足元を照らし、いつも正しい方向に導いてくれたように思う。まだまだケツの真っ青な俺の暴発で険悪な間柄になり、付き合いを絶ったりした時期もあったが、もし13年前、イーストヴィレッジのあの薄暗いブルースクラブで彼に会っていなければ、俺の今の生活は全く違っていたように思えてならない。だから約3年前に突然嶋田氏が日本に帰ると言い出したとき、俺はつくづく我が耳を疑った。今回の帰国で俺が一度はどうしてもやりたかったことがある。それは嶋田氏のドラムでスロー・ブルースをプレーすること。トリオで。極端な言い方をすると、今回のこのクロコダイルでギグをした理由のほとんどすべてが、七曲目のオリジナル・スローブルース「何処へゆこうか」に凝縮されていた、といっても言い過ぎではない。今現在の俺が、嶋田氏と「音」で何処までぶつかり合い、どんな火花を散らすことができるのか、胸を借りるつもりでプレーした。同時にこれは、俺から嶋田氏への、言葉にならない御礼でもあったし、又、今まで自分の中に貯め込んできた自分への借りを返すという意味でもあったように思う。

最後の曲はファンクのグルーヴでスタンダード・ブルース “You Don’t Have To Go”。もうここまで来たら何も思い残すことはなかったし、実際、この曲に関しては俺と佐藤勇がゴリゴリにプレーしたことだけしか思い出せない。でも友人から送られてきた録音CDをプレーバックしてみて、今回の「嶋田+渡辺+小松原」のリズムセクションがいかにカッコ良かったかを再認識させられた。

もうここまでやって俺のガソリンタンクは完全に「E」だったし、正直言ってアンコールの曲など何も用意していなかった。アンコール一曲目はスタンダード “Reconsider Baby” をギター一本で歌い出し、二曲目は本当にネタが尽きていたので、急遽アップテンポのファンク・ブルースをインストでプレーした。最後の曲に迷っていると、客席から「スローブルースをもう一曲!」と声がかかり、実はとても嬉しかったのだが、申し訳ない、あそこでまたスローをやったら、俺はきっと酸欠と脱水症でぶっ倒れていたと思う。ただ、演奏後、何人かの人々から「アンコールの二曲もリラックスしてて良かったよ!」と声をかけられ、その後のビールが一段と美味かったのは言うまでもない。

当日俺のバンドに割り当てられた前売りチケットは完売し、当日の入場者数はキャパの90%を超えていたという。こんなにたくさんの方達に来ていただけて本当に嬉しい。いろいろとセッティングしてくれた「WA!」の池田テツヤ氏、それにクロコダイルの皆さんには大変に御世話になった。次回はさらに輪をかけて、濃厚で攻撃的でセクシーなショーをやるつもりだ。

それにしても、あの晩の客席には、なつかしい顔がよくもあそこまで揃ったもんだと思う。一つ一つ、一人一人の思い出を「頭出し」するのが大変で、頭の中のオープンリールが一晩中カラカラと巻き戻されては早送りされ続けていて、脳ミソの映写機のモーターがオーバーヒート寸前で、二次会への参加をずいぶん誘われたが、失礼とは知りながら御辞退させていただいた。いつも自分のショーが終わった後は、なるべくゆっくりと店に残ってビールを飲み、一晩の喧騒、パフォーマンスそのものや多くのコミュニケーションからのテンションが自分の中から自然にフェイドアウトしてゆくのを待つのだが、あの晩最後まで店に残り、時間をゆっくりとやり過ごしていたのは、俺と俺のNY以来の二人の友人だった。ポツリポツリと空間が広がってゆくクラブをぼーっと眺めながら、いろんな話をした。ほとんど忘れかけていた小さな出来事がスライド・ショーみたいにビックリする位鮮明に思い出されては消えてゆく。ステージの真ん中に置いたままの335が、消し忘れたスポットライトを反射して、妙に重そうに浮かび上がっている。また一つ、大きな目標、大きな課題がボディーの中に乗り移ったからなのかもしれない。

蛇足1
あたりまえだが、四人のミュージシャン達は今夜も日本のどこかでブリブリと演奏しているはずだ。皆さん、これからも是非、彼らに注目してくれ!
嶋田良隆<http://www.char-net.com/><http://macoto.nobody.jp/>
渡辺茂<http://park16.wakwak.com/~mayo/>
小松原貴士<http://utsunomiya.cool.ne.jp/zebrabrothers/>
佐藤勇<http://www.sonymusic.co.jp/Music/Jazz/Artist/urb/bio/>

蛇足2
Xotic Hiro Model、日本でも良い音してたぞ! やっぱり、ネックを極太にしてもらったのは正解だった。多分、音的にも影響してるんじゃないかな?ピックアップだが、フロント、リアのハム・バッキングはあれで決まりだ。申し分なし。センターのシングルコイルはもう少し試行錯誤が必要かもしれない。トーンがやや硬過ぎるきらいが...。新しく装着させてもらったサドル “FerraGlide” 、これは使えます!弦はほとんど切れなくなったし、トーンも痩せない。

AC・RC両ブースターだけど、もしRCのゲインのマキシマムが現行の1.5倍あったら、さらに使いやすいかもしれない。それか、ACとRCを一つにして、フットスイッチでどちらにも切り替えられるブースターがあったら完璧だと思う。そうなると、タッピング・スイッチが二つ、音量・音質ノブが八つ、箱の上に並ぶわけで、コンパクトにするのが難しそうだが...、でもこれは絶対に良いアイデアだと思う。

追伸
...ある友人がこんな話をしてくれた。神奈川県鎌倉で漁師をしていた彼の曾おじいさんは、現役引退後のある朝、日課としていた砂浜の散歩中に、とても不思議な光景を目にする。長い漁師生活の中でも見た事のないグロテスクな深海魚や、釣り針や網にもめったにかからない珍しい魚が、砂浜のいたるところに打ちあがっていたのだ。何もおこらなければ良いのだが、と思わずにはいられない朝だったという。残念ながらその悪い予感は的中し、翌日関東大震災がおこった。また、チリ大津波を経験したという祖父を持つ知人の話では、「引き潮でもないのに潮が引いた時は、何も考えずに一目散に高台に登れ。」と、おじいさんは事あるごとに繰り返していたという。(偶然だが、新聞にインド洋の津波被害の大きかった地域の小島の話が出ていた。在住島民は大津波を経験したことはなく、家屋や漁船のほとんどすべてが壊滅したにもかかわらず、島民185人中、逃げ遅れて亡くなったのはわずか1名。「異常な引き潮見たら山へ逃げろ」という先祖からの言い伝えを、彼らはただ忠実に守っただけなのだ。)10年前の神戸淡路大震災でも、異変に最初に気付いたのは、日頃から自然を相手に生活をされる、漁師さん達や農業や酪農を営まれる方達だったようだ。不思議な雲が出た、山や森を伝わる風の匂いがいつもと違う、動物達が落ち着かない、等々。昨年は「天災当たり年」だった。世界中でハリケーンや洪水が猛威をふるい、日本では地震による大きな被害、そして極めつけが年末のスマトラ沖大津波である。この投稿を書いている現在、犠牲者数は22万人を超え、テレビで毎日のように放映される津波映像の猛烈な破壊力を見ると、思わず膝が笑ってしまい、あまりの無力感に言葉をうしなう。あれではひとたまりもない。それにしても、さらに驚いたのは、動物公園でエレファントライドに興じていた観光客が全員助かったというニュースだ。津波を予知した像たちが、像使いの静止を振り切り、鎖を引きちぎり、観光客を背中に乗せたままノシノシと高台に駆け上がってくれたというのだ。つまりこういえる。自然から遮断された都会に長いこと暮らしている我々の本来あるべき第六感はほぼ完全に退化し、もはや諸々の天変地異を予知することができなくなってしまった。間違いなく最初の犠牲者になるであろう哀れな俺たちがそんな自然災害から身を守り、被害を最小限に食い止めるためには、日常を大自然と相対して生きる人々や人生の先輩達の言葉、そして古くからの言い伝え等、これら今では希少となってしまった言葉の一つ一つに、常に聴く耳を立てておく以外に、どうやらできることはなさそうである。

ヒロ鈴木はデボラ・コールマン(Deborah Coleman)バンドのリズムギタリスト。
デボラ・コールマンのサイトは↓
http://www.deborahcoleman.com/index.htm

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